『浅草栄久町』

町会名の由来

 栄久町会は江戸時代、嘉永三年の古地図で見られる町の名を継承しています。
詳しくは、古い文章によると明治二年(1869年)五月、本町は浄念寺・東漸寺・天台龍宝寺・善照寺・常福寺・実相寺・本法寺・浄土宗龍宝寺以上八カ寺の門前町を合わせて起立した。ついで明治五年、山本屋敷・金六屋敷及武家地・寺地を合併して町域を定めた。
 
浄念寺門前は慶長十年(1605年)当地に替地を給わされて移転してきた。旧地は不詳。東京府志料に「浄念寺 化用山ト号ス 浄土宗芝増上寺末 慶長元年駿河台ニテ起立同年十年今ノ地ヘ転ス」記している。
東漸寺門前は始め江戸城の近くで起立したという。その後、神田柴崎という所に移り、新堀端の当地へ移ってきたようにも推察される。当寺は天台宗東叡山の末寺。
天台龍宝寺門前は起立年代不明。寛永十二年(1635年)四月八日、駿河台から当地に移された。龍宝寺は東京府志料によると、天台宗東叡山末で金剛寺と号し、慶長四年四月に駿河台に起立、寛永十二年当地に移転した。新堀には近接してニカ寺、龍宝寺と称する寺院があった。区別するため、里俗当寺を天台龍宝寺といい、もう一つの寺を浄土龍宝寺と呼んだのである。この呼称はいうまでもなく宗旨に基づいている。
善照寺は古門前であったが、起立年代は不詳である。元文三年(1738年)九月、寺社奉行大岡越前守忠相に古門前再興を出願し、同年十二月十八日許可された。したがって元文三年再興した門前町屋ということになる。善照寺は浄土宗東本願寺末である。
常福寺門前は正徳年中(1711〜1716年)に出願して起立した。当寺は東叡山寛永寺の末寺。当町会会館は常福寺さんの土地をお借りしている。
本法寺の土地は往古禅宗海潮院の所有であったが、なぜか公収された。その後浅草駒形の茂左衛門というものに払い下げられ千住の九郎兵衛というものに転売。九郎兵衛は本法寺の檀家であり、その関係で、土地は本法寺に寄付された。元禄十六年九月本法寺は寺社奉行阿部飛騨守正喬に願ってその土地を墓地にした。そして正徳元年四月寄付地の一部を門前町屋にするよう命じられ、町屋が開かれた。この町屋を本法寺町屋といった。法華宗下総国平賀本土寺末。
浄土宗龍宝寺門前は年季門前町屋であった。奉行に年限を定められて開いた門前町----これが年季門前町屋である。本門前の開設許可年代は不詳。龍宝寺は東京府志料によると「珠嶋山ト号ス 浄土宗京都知恩院末、太古三州ヨリ来タリテ八州河岸ニテ起立慶長十六年今ノ地ヘ転ス」といった寺院だった。
  明治五年合併の寺地は、東京府志料浅草栄久町の頃に記すところの寺は二十カ寺であったろう。浄念寺・東漸寺・龍宝寺・厳念寺・善照寺・心月寺・天台龍宝寺・常福寺・威光院・永見寺・宗円寺・実相寺・仙蔵寺・本地院・玉宗寺・不動院・東陽寺・海雲寺・大仙寺・本法寺。
 昭和十一年(1936年)に江戸・明治時代から浅草安倍川町の南半分、浅草栄久町の北部、浅草南松山町の東側大部分を合わせて二丁目として起立した。町名の由来は、この土地の中央部を南北に貫流していた新堀川の架橋である菊屋橋にちなんで付けられた。この菊屋橋の名は、近くに菊屋という菓子屋があったからという。この新堀川の東側である当町は菊屋橋東町会を名乗り地番は1・2丁目の偶数番号を名乗りました。
 昭和三十九年(1964年)の住居表示の実施で、浅草菊屋橋一・二丁目西側は元浅草三、四丁目・東側の当町は寿一・二丁目に分割して編入した。

明治以降の変遷を住居表示は下記のようになる。
 
 
 
江戸・明治時代
 
昭和十一年九月一日
 
昭和三十九年十月一日
 
 
(住居表示による)
 
 
浅草森下町西隅
 
浅草菊屋橋一丁目
 
寿    一丁目
 
 
浅草栄久町北部
  
同    二丁目
 
寿    二丁目

 これらの古地図・文献により現在の東本願寺を頭にし、浅草より南へ向かい現在の蔵前小学校までの西側が栄久町を名乗り二つに分け栄久町北部・栄久町南部と呼ばれていたようです。この関係で春日通りに栄久堂という和菓子屋さんがあるのが分かります。
# 門前町屋     寺院前に開かれた町民が住む町屋
# 年季門前町屋  奉行に年限を定められ開いた門前町
わが町の呼ばれ方

   江戸・明治時代          浅草栄久町会
   昭和11年より         浅草菊屋橋町会
   昭和20年頃          浅草菊屋橋東町会
   昭和39年より         寿一・二丁目西町会
   平成2年より平成16年    寿・栄久町会


  氏神様である鳥越神社氏子十八カ町睦会においての当町の名称は、江戸時代より現在まで「栄 久 睦」と呼ばれています。


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